一人でも不幸になるM&Aはしない

ただ、10年ほど前に、1件だけ、苦情を言われてもおかしくなかった案件があります。

それは、数店舗を営んでいたオーナーの案件です。ご夫婦で相談に来られたのですが、話すのは奥さんばかり。「すべての店舗をできるだけ早く売って、隠居したい」という要望でした。店舗運営は順調な上、ご主人に健康上の不安があるわけではなく、まだまだ営業を続けられそうにも思いましたが、ご要望に沿って、買い手探しに着手。経営状態の良い案件だったので、買い手はすぐに見つかり、最初のご相談から数ヵ月で問題なく契約がまとまりました。

ところが、譲渡当日、はしゃぐ奥さんの横で、ご主人の方を見ると、下を向き、寂しそうな表情を浮かべているのです。その瞬間、私は背中に冷たい汗が流れるのを感じました。「実は、ご主人は、売りたくなかったのではないか?」。そんな考えが頭をよぎったのです。

振り返れば、ご主人は、交渉中から少し元気がないような気がしていました。それは「自分は売りたくない」というサインだったのではないか、と。奥さんとは再婚だと聞いていたのですが、看護師だったので、薬局が高く売れるということを十分分かっていたはず。おそらく、ご主人に売却を持ちかけたのだと思います。それに対し、ご主人は、NOとは言えなかった……。

このことは、ご本人から聞いたわけではなく、私の思い過ごしかもしれません。しかし、ご主人に本心を吐き出していただくよう、話を十分に振っていたかというと、自信が持てませんでした。

その後、そのご主人とお会いすることはなく、どのような人生を過ごしていらっしゃるのかは分かりません。しかし、この時のことは、今でも事あるごとに思い出し、そのたびに心が痛くなります。

この一件以来、私は、「当事者の一人でも不幸になる可能性がある場合は、交渉を進めない」ということを深く肝に銘じ、仲介の仕事に取り組むようになりました。また、社員にもそれを徹底しています。だからこそ、大きなトラブルを招くことなく、今に至ることができたのでしょう。

薬局を譲渡するオーナーだけでなく、買い手や、これまで懇意にしてきた患者さん、薬局で長年働いてきた従業員、医療機関のドクターなど、すべての当事者に感謝される。

そんな「ハッピーリタイア」の形を追求していくことが、私たちアテックの使命である。そんな思いを忘れずに、これからも一件一件のM&Aに取り組んでいきたいと考えています。

アテック株式会社 取締役社長 鈴木 孝雄
「薬局オーナーのためのハッピー・M&A読本」より

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